知らない草

これ、本来ここに植えているのじゃないな。

と思いながら育てていたら、花が咲きました。とてもかわいい。

あちこち植木鉢から出てきているので、どこかから飛んできたんでしょうね。

今、私はベランダで花を育てているので、植木鉢もずっとベランダ。飛んできた種は風にのってやってきたのかなと思っています。

勝手に生える草といえば。

私には夢の雑草の庭があります。

子供の頃、たくさん見ていたシジミチョウ。最近見なくなりました。シジミチョウが食べる(幼虫)のは雑草と言われるものや苔の類が多いようです。ということは日向の広くぽっかりと開けた空き地みたいな場所が必要なのでしょう。小さい蝶なので、そんなに高く飛べないと思います。だから、地面で適当に開けていて、高い草があまりなくて。という空き地。

そういうところがあれば、またたくさん、子供の頃見た、毎日取っても取っても居るようなシジミチョウが見られるのかなあと思うのです。

そんな空き地みたいな庭があったらいいのにな。と思います。

なかなかそんな余裕のある場所を確保できないので、仕方なくベランダで勝手に飛んできた雑草を「はて、これは一体何に鳴るのかな。」と育てたりするぐらいの遊びをしています。今回はとってもかわいい花になりました。

 

芽を分ける

相変わらず「365日の献立」を繰り返し見ている。今まで録画したものをずっと。

なにか作業をしながら流していることが多いので、じっと見ているわけではなく、なんとなく流している。ふと見ると、見知らぬ一手間があって面白い番組だ。料理の仕方は人それぞれで、各家庭によって違うものなので、我が家ではしないひと手間が入っていたりして「真似してみようかな」なんて思う。

最近体調が優れない。

以前から優れている日のほうが少ないので、驚いていないけれど、辛いなと思うぐらいの日が多くなった。

もう発芽力がなくなったのであろうと思った、何回かの種まきで芽が出なかった種の残りを、ざっと土に蒔いたら、たくさんの芽が出てきてしまった。

出てきてしまったものは、育てようかなという気になったのだけれど、とにかく気を使わずにざっと蒔いたので、あちこち混み合って出てきてしまった。

芽を分けて植えると、注意していても小さい根を傷つけてしまうので、枯れてしまうことが多い。今回も注意して分けたけれど、きっとぐっと減るのだろうな、と思いながら、なるべく外側から掘り返し、芽を根をほぐしていく。

これ、何の芽だったのかなあと思いながら。

いくつかのもらった種や買った種を重ねて蒔いてしまった。でも、出ているのは同じ種類の不思議な芽。見たことがないので、もしかしたら山椒かなあと思っている。

インターネットで検索すればすぐ答えは出てくるのだけれど、私は楽しみのためにインタネットを検索しないことが多い。

なにかわからないことがわかってくるのが楽しいのだ。

インターネットで検索せずに、ずっと気にしていると、あれかなこれかなと周りを見回すことになって、ふとした時に「これと同じだ」というものに出会ったり、あるいは時が来ればわかったりする。それが時間がかかって楽しいのだ。

もちろん、インターネットのGoogle検索でわかることは日頃多い。仕事では検索ばかりをずっと使っている。なくてはならないものになったし、日頃何かを探しているときは「検索できないのは不便だな」と思うことが多い。特に仕事やデータを探しているときは「どうして検索できるようにしなかったのか」などと思うこともある。

けれど、そういったスピードやら責任やら、周りに責められることがないことは、絶対すぐに分からなければいけないことではないならば、わかる時を楽しみたい。

 

大丈夫

休みの日ごとにものを捨てている。なのに全然減らないのはあまり大胆に捨てていないからだろうと思う。大胆にどんどん捨てていたのは初めの頃で、諦めが付きやすいもの、もう絶対二度と必要にならないであろうものばかりだったからだろう。

ある程度捨てると、今度は今後似たようなものが必要になった時手に入れられるだろうかなどと逡巡するようなものが多くなる。そして細かいものが多くなり、整理に手間取る様になるのだ。

それでも、色々とゴミは出る。ゴミをまとめると結構な量になるのに、一向にものが減らないのは、日々、色々と買い込んでいるからもあるし、もとの量が多いからと言うのもあるのだろう。たまに見聞きする整理術のような話で思い切って全部捨てたという人がいるけれど、そういったいっぺんに全部捨てられるのは経済的に余裕がある人だろうなと思う。

ある程度のものを一気に揃えられる経済力、必要ならば再び揃えられる自信がなければなかなか一気にすべてすっきりというわけには行かないのではないか。あるいは経済力がない場合は、勇気か。

とにかく、そういったことは脇において、「大丈夫捨てられる」を心のなかに念じながら捨てている。

大丈夫、大丈夫、きっと捨てられる。と思いつつ、いろいろなものを捨てている。先日大量に捨てたのはお茶道具。といっても、特にいいものではなく、本当に稽古道具。茶筅はたくさん出てきた。こういうの、もらうものなのだ。消耗品だから。私はついにお茶は身につかなかったな、などと思いながらどんどんゴミ袋に捨てていく。稽古用の茶碗なども「いったいどう捨てればいいのか」と思いながら、燃えないゴミのその他のゴミなのかななんて思いながらゴミ袋へ入れる。ごめんね。と思いながら。どうしたこともない雑器、大量生産のものでも、使える道具なのでごめんねと思う。食器類というもの。まだ使っていないものなどは誰かもらってくれないかなどと思うけれど、中古屋さんへ持ち込むのも手間で、時間も体力もないので、どんどんゴミに出してしまうことにする。非常に物に対して悪いような気がする。

でも、「大丈夫、大丈夫、きっと捨てられる」と心のなかで唱えて作業をする。

使わないゲーム機、もう動かないものなど、捨てる。

家電製品も捨てるのが手間なものだ。交換したハードディスクなどもどうしていいかわからず十年二十年と持っていたりする。破壊するのも大変なのだ。消去も正常に動かないだろうし、などと躊躇していると、すぐ二十年ぐらい経ってしまうのだ。これも破砕しなければ。

そうだ、Win7端末も初期化をしておかなければ、処分するにも処分できないな。などとやることはまだあって、単に捨てるといってもいろいろだ。

でもとにかく一つづつ捨てなければ。

ということで、休みごとに「大丈夫大丈夫」と言いつつ作業をしている。

私はこの頃、自分に「大丈夫大丈夫」と唱えることが多くなった。以前よりショックを受けやすくなったのもあるが、もともと気が小さく、動揺しがちなのだ。でも誰も大丈夫などとは言ってくれないので、自分で言うことにしているのだ。大丈夫大丈夫。きっと別に殺されるわけでもなし。大丈夫。と。

仕事でも、外に出ても「どうしよう」と思うことが多い。困ったことになることが多い。そういう時、全然信じていなくても「大丈夫、大丈夫。まだ今日も生きてる。」と唱えている。失敗しているけれど大丈夫、なにか大事になっているけれど、大丈夫(??)。まだ生きてるし。と。

全然だいじょうぶではないのだけれど。

 

春の嵐

風が吹いている。

南から空気を運んできた春の強風は雨と温かい空気を運んできている。

そんな日に朝はこのところ少々調子が悪く頭が痛く、薬を飲むべきかどうかなど思いながら、録画していた365日の献立を続けて見ている。様々出てくる料理より、料理道具や静かな料理の仕方が新鮮で見ている。誰かが料理する姿というのを一番見る機会があるとすれば、私の場合は母だが、プロの人が撮影用に調理する様は静かで慎重で調理道具はおしゃれで、新鮮なのだ。

あんなきれいな道具は使わないな、なんて思って見ている。

手付きも丁寧でおしゃれだなと思っている。我が家の調理はあんな優しげなものではないと思う。

とにかく、強風の雨の日、誰かの優しげな手付きを見ている。

 

昨晩は「蝉しぐれ」をBSで見ちゃいました。ドラマ版。全三回。文四郎の友達がいいやつでいいなと思いつつ。藩の不正から不遇をかこつ武士(剣豪)の話。両片思いの話も添えてって話で爽やか系の話でした。秘剣村雨。恐ろしいですな。ちゃんといいお嫁さんが来るところとかも爽やか。最後の最後でおふくさんが結構積極的に来てびっくりだけれど。奥で鍛えられたのか?出家する前に思い出づくりがすぎるぞ。