わからないからの使者

 「わかりたい」で右往左往しているのが今の私達、私達は「わかりたい」んだな。とこの頃の困った流行り病新しくやってきたウィルスについて思います。

 

過去の病気に比べてみたり、他の統計と比べてみたり。それぞれ「恐れない」と決めてみたり「適度に恐れて暮らす」と決めてみたり。たとえ「自分は大丈夫」と自分で決めたところで病は関係なくその人にやってくるかもしれない。かもしれなくて「わからない」。他の同じような人が大丈夫でも、自分は大丈夫ではないかもしれない。

「わかる」ことは度合いによってはそれを支配したりコントロールすることができたりするので、ぜひ、このような大きな「わからない」は「わかりたい」。

なのに、わからない。

ということで、もう「わかった」と乱暴に「恐れない」と決めたり、自分はかかっても大丈夫と決めたり、よくわからないけれど「大丈夫」と決めたりしてしまうのは、もしかしたら「わかる」ことへの拒否あるいは「わからないと認めること」への拒否なのだろうか。

まあ、どちらに早々に「決めて」しまったところで、どうなるか、どんなものかは「わからない」のだけれど。今の時点で。

この世には「わからない」ことは意外と多い。明日を生きたことがある人は一人も居ず、どうなるかわかったことではない。のだけれど、そんなふうに考えると生きていけないので、とりあえず、明日はある。と思って生きている。ある程度は「今とおんなじような感じ?」と思って生きるのだ。

とにかく、いろんなことを「わかって」頑張って発展したのかどうかはおいておいて、乗り越えてきた生き物なので、大きな力(影響力)があるわからないものが来ると困ってしまい、わかりたいのだ。ぜひ。

こんな「わからないもの」だ。と感じたからなのだろうか「わからないもの」には「わからないもの界で」と「アマビエ」が登場した。

といっても「アマビエ」は残念ながら今回の困難に現れたものではなく、江戸時代後期のものらしい。現代人はわからないものに対応するわからないもの界のもの(しかも結構魅力的)を呼び出す力が弱まってしまっているのか、登場願えないので、仕方なく文献から召喚。「わからないもの界」のものに「わからないもの界で対抗」と思うのは当然なのかもしれないなと思いながらこの魅力的なキャラクター(すでにキャラクター)の様々にバリエーションを広げていく様を見ている。

ピエロ目の魅惑のお使いアマビエ。紹介される文献の絵は意外とモダーンでそこも人気の源かもしれない。まあ、マスク、手洗い、うがい、ソーシャルディスタンス、出かけないなどしつくして、もうどうすればいいのか。と思うとお守りキャラクターぐらい持ってみようという気になろうというもの。「ひさまつるす」と書いた紙をぺたりと貼っていた江戸時代の人と気持ちは同じ。

なんというか「勘弁願います」という気持ち。