心の名所 歌枕

またサントリー美術館で開催中の「歌枕 あなたの知らない心の風景」を見に行った。

前半、初日に見に行って、とてもよかったのと、一緒に行こうと母と約束していたから、すこし展示替えがあったことろでまた行った。

私が歌枕に興味を持ったのはお菓子の名前、菓銘から。今は少なくなってきているけれど、少し前(といってもいつも10年前が2、3年ぐらい前?ぐらいの感覚になっている)までは、お菓子には和歌や漢詩の世界(漢詩もまた和歌に取り入れられているけれど)があふれていて、何も知らない私には、抽象化された姿とそれを風景に導く菓銘の組み合わせはミステリアスなものに思えてならなく魅力的だったのだ。

姿を見ても、何を現しているかわかりにくい(現在は実際の果物や花の姿を現しているものが多い気がする)模様のようなもの。きれいだけれど、何だかわからない。見ていてもわからないところへ、名前を教えてもらい、へーそういうったものを現しているのか、と思っても、その名前の持っているイメージを知らなければピンとこない。というものが多かった。

不思議なお菓子を見ていつもあこがれていたのと同時に、歌枕の名前を聞けば、あー聞いたことがある。と思うのは謡の中に土地の名前が入っているからだ。

好きなだけで一向に詳しくはならないけれど、美術館に行くのも好きで、特に屏風や蒔絵が好きで機会があれば見に行く。そこにあらわされる風景もまた和歌の歌枕のお約束を多く含んでいる。だから、今回の歌枕をテーマにというのはちょうど知りたかったことで、展覧会は開催前から特に楽しみにしていた。

今回行く前に、一度目に行ったときに図録を買って、見てきたものの説明を読んだ。会場で説明を読んでいると、どうしても作品をじっくり見ることができないので、いつもは説明はあとで読むことになる。けれど、そうすると、見ているときに知っていればまた違った見方ができただろうなと思うこともある。今回のように一度いって説明をじっくり読んで、また行くというのが私にとっては理想的な見方だと思う。なかなかできないけれど。

和歌を書いた「なになに切」というようなものも一生懸命読む。会場では読める文字を追うだけだけれど、図録があれば答え合わせもじっくりできる。読めない字も、これ元の字な何だろうと思いながら、こういう形もあると覚えなくてはと思う。

そんなことも図録があるからできること。家でしか、こんなにじっくりあれこれ考えたりできない。会場では素敵な絵を前に興奮してしまい、まったく落ち着かないのでじっくり見るのもなかなか難しいのだ)。なんだか浮足立って、あれもみたいこれもみたいとそわそわして、結局気がせいて全然見られないのだ。いつかどこでも落ち着いていられるような人になりたい。図録はすばらしいけれど、やっぱり本物を直接見ることにはかなわないのに。

でも、とにかく素晴らしい図録(難しくてわからないことも結構あるけれど)を手元に少しずつ学習中。

落ち着きがなく、人がいるとなかなか静かに見ることができない私には図録は必須。

さて、会場も二回目なので好きな作品は一回少し前に見ているし、少しだけ落ち着いて作品に集中できるのではないか。と見始める。

ある程度、前回で歌枕のお約束、そして、現される図の意味を見ていたので、改めて前回見ていなかった部分に注目することができた。母が一緒なので、母が興味を持つところは私とは違う部分があるのでそれもあって、作品の見方が変わる。

母は「紅板ってどうやって使うの」なんて突然聞いてきたりするので油断できない。いえ、私だって使ったことないですよ。でもあれ、ぱかっと蓋を上に、よくある箱みたいに外すタイプだと思いますよ。あの板のぱかっと開く、開け方が知りたいんですよね。蓋になっているものが多いと思っている。薄いから、スライド式か蓋式か、それともと知りたかったのだと思う。コンパクトみたいに開くタイプもあるし、展示されているものがどのタイプかはわからない。とても薄いので手掛かりをたよりに蓋を外すタイプか本をひらくみたいに縦こんぱくとみたいに開くタイプかなあ。

展覧会を見ていて。現代の生活で歌枕とのつながりは薄くなっている。けれど、全くないか、といえばそうでもないのかなと思う。最初のきっかけの菓銘や謡だけでなく、ちょっとしたものの模様などに、歌枕からくる図の子孫のようなものは紛れ込んでいる気がする。それを見た人が単なる鹿と紅葉、と思ったり、単なる風景と思ってみていても、そのもととなる場所や歌があるということはあるのではないかと思う。そういった日常で何気なく見ている組み合わせ、そのもととなった昔の人の心の中の風景を繰り返し繰り返し展示物で見るうちに、やがて現代に生きる私たちの心の中にも、なんとなく、その風景や組み合わせが「ある」ような気分になってくる展覧会だった。