5月のゴールデンウィークが終わったような終わらないような週末。旧古河庭園のニュースに「ついに春バラの見頃に入りました」とあるのを見る。バラかあ。やっぱりバラも良かったかなあ、いやいや、これ以上植木を増やしてはならない。クチナシを買ってしまったではないか、と先週の神代植物公園を思い出す。友達は神代植物公園の売店でバラの苗を2つ買ったのだ。私も少し買いたかったけれど我慢して、我慢したのに、結局クチナシの苗を買ってしまったのだ。私によくある、我慢して結局我慢しきれなくて、一番最初のではなくて・・・というのを中途半端な気持ちで買ってしまう。そして後で「あれ、これがすごく欲しかったんだっけ。」と思う。
いや、クチナシの花も見てみたい気がしたのさ。と思いつつ水をあげている。クチナシの苗は10センチぐらいの小さい仮の植え替え用のビニールのポットに入ってその上に仮のプラスチック鉢に入っていた。改めてみるととても小さい鉢だ。もう一回りぐらい大きい鉢に植え替えてあげようと思って裏庭を見渡すけれど、ちょうどいい鉢がない。数年前、鉢植え道具をかなりの数処分したのだ。
子供のころ、とにかくあちこち鉢植えがあり、鉢は適当に転がっていたものだった。今は狙って用意しないないと無い。私が子供のころ、植木、特に鉢植えは庶民の気軽なペット、娯楽だったのだなと思う。今でも、ガーデニングといったものではなくて、玄関先にぽっと置いてある鉢植えなんかがあるけれど、そういう鉢植えみたいなのが庶民のささやかな楽しみといった風情で好ましく、また懐かしく思われる。今も下町を歩いていると、玄関の横に、例えば夏なんかは朝顔の鉢が置いて合ったり、少し夏が進むとほおずき市で買ったようなほおずきの苗がぽっと置いてあったりするのをたまに見つける。あるいはなんだかやたらと増えた鉢が家の周りに置いてあったり。美しいガーデニングよりそちらのほうに親近感と懐かしさを感じる。庭がない家で気軽に鉢植えで植物を飼っている感じ。
不織布で作ったバッグのような鉢に土を入れる。家の鉢をいろいろ処分した身では二度と処分に手がかからないように、陶器などの焼き物の鉢は使わないようにしているのだ。少し寂しいし、見た目もよくないけれど、それがこれからの生活なのかなと思う。クチナシは不織布バッグの中に納まった。あまり大きくならないように、次の剪定を頑張らなければと思う。枝の先にはつぼみ。もう少ししたら咲いてくれるだろう。