てくてく

古本で「江戸近郊道しるべ」を買う。

現代語へ翻訳したバージョンも出ているけれど、一部のみとのことなので、こちらを買った。江戸時代の散歩日記だ。江戸時代のものだけれど、江戸後期の人で、現代の人が読んでも、翻刻してあるので読みやすい。ところどころ著者の村尾 嘉陵のスケッチも載っている。

この散歩日記は江戸時代、徳川清水家で御広敷用人だった人、村尾 嘉陵が自宅から江戸近郊へよく寺社仏閣へハイキングへ行き、その時の記録をこまめに書くのを楽しみにしたいたらしい。私はこの人の現代語訳をかなり以前にダイジェスト版で読んでいた。今、急に古本でこの「江戸近郊道しるべ」を購入したのは、最近沢木耕太郎の本をKindlleで読んだからだ。

以前から江戸時代のこのあたりの、普通の人の日記に興味を持っていたのでその流れでこの現代語訳の「道しるべ」を読んでいたのだと思う。けれど、本ばかり買っていては大変なので、その時はダイジェストで我慢していた。

そんなことをすっかり忘れていたころに、kindleでふと、沢木耕太郎の「旅のつばくろ」を読み始めたのだ。

青春の書、「深夜特急」を読んだのは、かなーり遅い青春がやってきていた30代のころだと思う。もともと紀行文が好きで子供のころからよく海外に出かけた人の紀行文を好んで読んでいた。外国への憧れがあったのだろう。でも、なぜか「深夜特急」は避けていた。あの独特のカバー絵、そしてずらっと本屋に並んでいる姿が、なんとなく「ちょっと昔のすごいメジャー」な本なのだなと思わせるところがあって、きっと私には合わないだろうなと思っていたのだ。

みんながいいというものが、もしわからなかったら悲しいな。という気持ちもうっすらあったのだと思う。

ところが、その頃はよく本屋を何かというとうろついていて、さて、これを読もうかなと思う本がだんだん文庫の棚を見ていてもひらめかなくなったころ、ついに「この有名な本を読んでみるか。」と思って手にしたというのが読んだいきさつ。

すごく面白くて次々と買い進めて行けるのも、ちょっと昔のでも依然人気の物語のいいところ。一気に最後まで読んで、あの、ヨーロッパに到達するころから、なんだかつまらない雰囲気が漂うところも旅っぽいなあと思いつつ読み終えた。

沢木耕太郎の本でお気に入りは「凍」なのだけれど、それ以降、ちょっとした文章をするする読めるうまい人として読んではいたけれど、本はなんとなく手が伸びないでいた著者。それがなんとなく、エッセイを読みたくなって偶然kindleの候補に出てきたのが「旅のつばくろ」なのだ。

「旅のつばくろ」はどうやらJRの車内雑誌に載っていたもののようで、国内旅に特化したエッセイ集。「旅のつばくろ」がさらっと読めて面白かったので、次に「旅のつばくろ飛び立つ季節」という続編も読んだ。そこに、本好きの人なら「わかる」と思える「いつか棚」というエッセイがあった。「いつか棚」というのは大雑把に言うと、「いつか読もうと思っている本の棚コーナー」。エッセイではこの「いつか棚」も「棚卸」が必要で、そんな作業のうちに、ぱっと目に入ったのが件の「江戸近郊道しるべ」のダイジェスト版「江戸近郊ウこのォーク」という。そのエッセイを読んでいて、あ、これはと思って思い出したのが以前読んだ「江戸近郊道しるべ」のダイジェスト版なのだ。「旅のつばくろ 飛び立つ季節」のそのエッセイでは数ある道しるべの中から「瀬田村行禅寺・奥沢村九品仏 道しるべ」が選ばれており、著者がその道しるべに従って村尾 嘉陵と同じように歩いてみることにした顛末が書かれている。確かに、なんとなくてくてくイメージがある沢木耕太郎とてくてくしか手段がなかった江戸時代の東京人、江戸人の郊外への旅は相性がいいのかも、と思った。

江戸自体の人の旅で私が一番引き付けられるのはなじみのポイントポイントがぽんぽんと出てくるものだ。「瀬田村行禅寺奥沢村九品仏 道しるべ」もポイントポイントがほとんど私のある程度なじみのある場所であること、ことさら、出発点の村尾 嘉陵の家はいつもいる場所にかなり近い。沢木耕太郎のエッセイ内で多少ぼやかして書いている場所も「あ、あそこだな」とわかるものだ。途中の現在のお店なども「あ、あれだな」とたどれるものだ。そして、到着する九品仏あたりも親戚の家があるので、かなり頻繁に行く場所。そこまでの道もある程度通ったことがある場所が多い。

それにしてもよく歩く。江戸の人は歩くと聞いているけれど、かなり高齢であろう、もうすっかり隠居も隠居の村尾 嘉陵も慣れているとはいえ、番町から九品仏、つまり世田谷まで徒歩で往復している。もちろんその日のうちに。日帰り旅。

 

良く歩くなあと思うのは、これも大好きな岡本綺堂の「半七捕物帳」。半七親分が府中まででばっていった回があって記憶に強く残っているのだけれど(これも子供のころ住んでいた府中が出てくるからだろう)、こちらは泊で調査に出かけている。そうでなくとも江戸内でも、当時江戸は狭いとはいえかなりの距離を歩き回っている。

こちらも大好きな和歌山藩士、酒井伴四郎日記も和歌山から江戸の旅もすごいけれど、とにかく単身赴任で江戸に出てきてから、暇にまかせて(江戸時代の武士のお仕事は今みたいに通勤をあまりしない)、とにかくあっちこっち歩き回っている。そして、結構な距離をお堀の内側の藩邸内長屋から歩いている。

そんなこんなですっかり紀行文から離れているとばっかり思っていたけれど、意外とちょこちょこっと間をあけて、紀行文的なものを読んではいたのだなと今思った。

紀行文好きは変わらずか。

私はあまり体力がないので、てくてく歩きを長くすることはない。けれど、てくてく歩きで行けるなら、それが一番気楽でいいなと思う。電車はバスはそれほどでもないけれど、でも、「決まり」のようなものがある。日ごろ使っているけれど。とくに私はなじみのない「バス」という乗り物が苦手だ。とにかく、なんらかのルールがあって、流れがあって、それに乗っていくというのがちょっぴり苦手だ。ある程度仕方がないので、日ごろは平気だけれど、歩きならば、本当に、自分だけなので、自由といえば自由。周りの断りもいらないし、周りの思惑を組む必要もない。何らかのルール手順、出発時間、ある種の締め切りや都合、手順といったものについて厳密な縛りがない。というところはほっとするところでもある。まあ、歩きだと道を間違えてるんじゃないかという不安はあるけれど。

そんなこともあって、古本の「江戸近郊道しるべ」を手に入れた。今度はダイジェストではなく、もっと詳しい江戸時代の日帰りハイキングを楽しめるはずだ。