涼炉疲れ

2月の半ば。展覧会「没後190年木米」を見に行きました。江戸の文人。文学、漢詩煎茶道、焼き物、絵画に通じた人。その木米の作品と交流をテーマにした展覧会。木米さんがどんな人なのか、知らずに行きました。今もあまりよくわかってません(説明は読んでいますが)。

なんだかいつもより疲れました。一緒に行った母も「くたくた」と言っていました。絵画がすくなめ、焼き物が多かったからかもしれません。それも、すっきりしたものよりは、盛沢山のものが多かったような。時々小声で「やりすぎ木米さん」と二人でつぶやきながら鑑賞。なんというのでしょうか、こってり装飾したり、みっちり彫り込んだり書き込んだりしたものが多いのと、お道具バリエーションがずーっと並んでいたからかもしれません。見ていて、当時の文人が理想の中国の文人たちの世界にあこがれて、それこそ理想の世界なのだと思っていたのかなあと感じられました。実際に見たことがない、素晴らしき世界。それに近づきたいと目指していたのかなあと。

とにかく涼炉(煎茶のコンロみたいなもの。上に急須を乗っける小さいかわいい炉)がいっぱい。急須がいっぱい。時々染付の感じのいい湯のみが出ますが、それ以外は結構こってり、ぐいぐい系。

とはいえ、全体を見ていると、文人たちの交流は楽しそうで、その交流と遊びは、母は「うーん。今私たちがクイズとか楽しんでいるのと同じようなものなのかも。」と感想を言っていました。あつまって「あれだこれだ」と「これは何かな?」「わかった!」と仲良く遊んでいるようなそんな感じなのかなあと。

途中、涼炉の炭を入れる上の部分とは別、下の風を通す窓のようなところにお人形を入れて装飾しているものを見て、二人で「これは・・・お人形に灰がかかったりしないのかなあ」とわからないと悩みました。素焼きの王羲之さん人形バージョンはいいとして、美女が衣を翻しているバージョンは彩色もしてあって、なんだか汚れたら困りそう。

「お掃除の達人が名人級の筆さばきで灰を落とすのかも。」「でも素焼きだとしみちゃいそう」とか心配しつつ見ました。王義之さんが入っている涼炉は大きな写真になって、撮影スポットになっています。王義之さんと一緒に写真をとろうか?と言ったのですが、二人とも恥ずかしくて写真をとりませんでした。でも大きくひきのばされた写真が細かいところがよく見えてよかったかも。

階下の第二部では絵画もあってほっと一息。「やぱり絵があるとほっとするね」と言い合いました。なかでもかわいい涅槃図は見ている人がみんな「ふふふ」と微笑みながら見ていました。親愛がこもった涅槃図に思えるからかも。

きっと、小さいころから賢くて見どころのある人だったんだろうね、だからきっと素晴らしい知識人たちにかわいがられ、また慕われたんだねというのが二人の感想。なんだか文人たちの友情をほんのり感じる展覧会でした。