四月最後の金曜日。用事のついでに根津美術館の「燕子花図屏風の茶会」展へ行く。
毎年燕子花図屏風を展示しているけれど、今年は昭和十二年の五月の取り合わせを部分的に再現する展示。待合、本席、中立、濃茶、薄茶席、薄酌席、番茶席、本席のうちには懐石、墨点前と一通り展示物で本格茶事に参加したような体験ができるようになっている。
かなり大掛かりな茶事(茶会ぐらいしか覗いたことがないので、茶事となると、もうほーすごいとしか言えない)で、燕子花図屏風を中心に、さまざまな美術品と茶室、広間、大書院、小書院と部屋もふんだんに使った茶事。
さすが。
メインの燕子花図屏風の展示の右には藤花図屏風、左には吉野図屏風という花に囲まれた展示だ。屏風は近づくと大画面いっぱいに風景が広がっていて、その風景に入っていけるのがいいし、右から左へ見ていって、左隻から振り返ってみるのも好きだ。今回は藤、燕子花、山桜を一度に目の前にいっぱいに見ることができた。
燕子花屏風も不思議な屏風だけれど、見るたびに枝に視線を伝わせていくと藤の咲いているところへ行けるところもいいけれど、とにかくぱっと見て藤の大きな木だ。と思うのだけれど、よくよく見ると枝は筆の幅を使ってすーっと書いた線なのだ。でもその線から透ける後ろの金の透け具合、筆の運びで大きな藤の枝があちこちと伸びているように見えるのだ。でも、やっぱり墨の線。そんなことを繰り返していると、藤の世界に入っていけるのだ。金の中に浮かんだ藤だけれど、その金の中に入っていける。燕子花よりこっちのほうが幻想的だなあとも思う。
屏風、そして細かい細工できれいな武道の絵が描かれている提重と面白い仕掛けの盃が薄酌席のごちそう。
二階の展示は画賛。画賛・・・。難しいな鑑賞が。僧侶なんかは絵に添えて詩を書いているのだけれど、あれ、みんなで書いているの、その場ですぐ書くのだろうか。と思いながら見る。なんとなく漢字を見て、この風景からそれぞれ風景を詠んだり、そこからすこし発展させたりとか、そんな感じなのだろうと思う。もちろん仏の心みたいなところとも関連しているのだろうけれど。とにかく、それをコンパクトにまとめられるのがすごい。それにこういう画賛みたいなのって、その生きている人の手で書いた文字というのも重要なのだろうと思う。録画とか録音がない時代、もっともっと、その人を感じるものなのだろうなと思う。今も、文字を見ると、その線などを追っていると、その人が手を動かしている、その気配を感じるというか想像するところがあるなあと思う。
そういうその人を感じるというのがきっと大切な部分なのだろう。と思う。