なぜかない

さて、7月の会、「何する?」という話になり、天狗もの、「善界」は?ということになり、それならもう番囃子でならったことがあるはず。と先生に言われました。そういわれれば、ずいぶん前に習ったような。

家に帰ってみれば、習った痕跡はあるのですが(番囃子の録音がある)、手附が全然見当たりません。使った手附は基本的にすべてファイルしているのです。そして、去年、手附のファイルをし直したときにチェックした百番集の目次にはしるしがついているので、その時は善界があったのだと思うのですが・・・。

「善界」は能の曲で、中国の天狗が日本に仏教界をぶっこわすぞ!とやってくる話。番囃子とは前の日記に書いた通り。そして手附とは、能の謡にそって、どこの部分でどんな手を打つか、を記したものです。お能の囃子には楽譜のようなものは基本的になくて(八拍子を線で表したやつ割というものはあるのですが、全曲をそれで書いたりはしない・・・と思います。初心の時、わかりやすく、短いパーツを習うときはみんな使います。たぶん。)、詞が描いてある謡の本の文字の右に、ここにはこれを打つ、これをする、といった書き込みをして、それを覚えます。手と呼んでいるパーツのようなものが大体あって、それをその場に合わせて(!)なんとかするのです。演奏のその時、その時でいろいろと細かく(その場で)変わるので、絶対こういう拍子でここというのは、あまりないような・・・。

とにかく、でも、ここでこの手を打つという決まりはあるので、それがないと、プランが立てられないのです(もうすっかり何年も前なので忘れてしまっているし)。

今度先生にあった時「手附がありませんでした・・。」と言ってもう一度もらうしかない。うーん。どこにいったのかなあ。ファイルを全部ひっくり返しても出てきませんでした。数が多いので、違う曲の手附に挟まっている可能性大ですが。

これも、もらった手附を全部百番集にちゃんと写していないからいけないのです。百番集というのは、大体代表的な曲を100曲集めた小さい本で、百番集、続百番集とあります。上演される詞がずーっと書き連ねられているもので、その文字の横に、手附を書き込んでいって、あとで見られるようにしておく。というのが、「やらなきゃいけないこと」なのですが。してません。うーん。だって手附書くの下手なんだもん!いや下手なんだもんじゃなくて、書かないからだよ。と自分で思います。はい。