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最近緘黙症、場面緘黙(というのが正式かどうかわからない)が登ってきて、へーと思った。

私が子供の頃これだったのではないか、と思っている。家族の前では話せるのだけれど、外では声がでない。

大きくなって声が出るようになったが、衝撃があると、でなくなることが今もある。

自分では出しているつもりでも、出てなかったということもあった。

声がでないと話せない。話せないと「バカ」だとか「何も聞こえていない、感じない」というような認識になるようで、攻撃の的になることも在るので、子供の頃は人がとても怖かった。その怖い気持ちがさらに声を出せなくなったのではないかと思う。子供の頃はとにかく構われると大変なので、構われないようにしていたので、そこも「バカ」だとか「何もわからない」と認識される事を増していたのかもしれない。

とにかく、そういう「モード」にならないように。と今も思っている。おとなになってそういう場面は無くなったと思っているが、あまりに追い詰められると「あ、これはまずいな」というような予感があることもあった。でも、そのときはもうとにかく何も考えないようにしている。

そんなふうに過ごしたので、大人になっても人は怖い。大変苦手だ。また話せないだけではなく、子供の頃は色々あったので(人の名前を一切覚えていなかっただとか、まあ色々ある。)今もやっぱり健全にのびのび育った人とは全く違うのだと思う。それに人と接したり、人に対する練習ができていないので、相手がどんな人なのか、相手と自分がどういう関係なのか、どのような扱いを受けているのかといった事を外から眺めるような視点が足りなかったり、基準となるようなものが無くて困るといった基本訓練ができていないところがある。その点危険である、暮らしにくさは残っている。

そういっても生きていかなければ行けないので、工夫しながら生活をしている。

職業は・・・まあもうちょっと情報がある時代だったらなんとかもう少し自分を活かせるような仕事を探せたのだろうなと思うけれど、環境も環境だった(家族の理解もなかったので)し時代も時代たったので、それもなく、なんとかまあ外には出ていけるようになったので、自分でなんとかせいという事になっている。もう少し自分にあった情報にリーチできていればよかったのに。と今の時代を生きていて思う。

同じような人でも、今の時代はまた情報の探しようも在るので、私のアドバイスなどはいらないと思うが、今行きている私から言えることは、まあ、私ぐらいの老年に手がかかるぐらいまでは、なんとか生きられるよ。ぐらいのことだろう。

なんだかんだで「行きているのだけで苦しい」まさに「息苦しい」とはこのことだと子供の頃から思っていたが、意気地無しが高じて大胆な行動に出られないのが幸いし生きている。友達もなく、理解者もなく、向いているものもでなんとか生活するということもなく、さほどラッキーでもなさそうで、くじ運もないが、今のところは生きていられている。自分の知らないラッキーに支えられているのであろう。

大人になれば楽になるということもなく、生きていれば良いことも在るということもさほど保証はできない。が、人は過去のことしか知らず、未来は知らないので、まあ、明日は何があるかわからないのだから。ぐらいのことは言えると思う。吉と出るか凶と出るかはお天道様次第。何が起こるかなんて誰にもわからないのだ。だから嫌って言われればそうなのだが。そして、そういう私も明日になれば「だめだー」と言い出すのかもしれないのだけれど。

とにかく若い人は自分の人生がまだ短いので「もうここまで来たのだから巻き返せない」と思うかもしれないが、まだまだ若いので(と本人は思えないのだが)、大丈夫だ。と言ってあげたい気になる。なんだか人の寿命は伸びているらしい。昔の文豪や武将なんかさっさと死んでしまっている年になっても、まだまだ今なら若いのだ。だから、大丈夫だから、時間があるから。と言ってあげたい気になるのだ。

物語の用意幸福な出会いや誰かの助けは無い事のほうが多い。なんとか独自のやり方で工夫して生き延びて。と言ってあげたい気になるのだ。