水の男

奇譚を集めた田中貢太郎の本のうちから「ある神主の話」を読む。

田中貢太郎は明治生まれ。Wikipedia によれば「各時代の〈伝奇小説集〉や『紅楼夢』、『聊斎志異』、『剪灯新話』などを愛読」(BY Wikipedia)とあるので、そのあたりを読んでいるとなるほどと馴染む話。

「ある神主の話」は神主になった男が神主になるまでのことが、不思議でありながら淡々とした様子が語られいく。ある男のもとに、登場からしてただ人ならぬ「小柄な男」がやってくる。「男」は落ち着き払った様子で、わりあい気楽にこの小柄な男扱う。時々恐ろしいことを言い出す「小柄な男」に対しても、自分の考えは曲げず、かといって突き放すでもなく、小柄な男の悪巧みを阻止しつつ、仲良く付き合っていく。「まあいいじゃないか」といくら小柄な男が怒り狂っても。

男があまりに平気ですべてのことを平に扱うので、読んでいるこちらも、割合落ち着いて読んでいられる。物語の中の小柄な男もなんだか男があんまり平気だからか怖い男にはなりきれない様子。絶妙な距離感でとても人とは思われぬ「小柄な男」、水に属するなにからしい「水の男」と最後まで付き合っていく男の話。

各地の不思議な話というのは「オチ」のようなものがあっても無くても(無いほうが勢いがあって私は好みだが)面白いものがある。こういった誰かが語ったような話を聞く(読む)のが好きだ。だから能も好きなのだろう。

誰かが語る話が好きだから知っている話でも何回も楽しめる。落語なんかもそうかなと思う。歌舞伎なんかも、みんな内容を知っているけれども、毎回おもしろいなと思って見ている。あれは上手い人たちが物語を見せてくれるからなんだなと思っている。

どれも上手い人が語れば面白いがそうでないと飽きてしまうのも共通している。

同じく田中貢太郎の山の世界の中で男が出会う怪異「狼の怪」を読む。

どちらも短編であるところも好ましい。この手の話は長くすると面白くない気がする。

どうなったのか、どうしてなのか、出来事が全部「回収」されないのがいい。わけが詳しく話されないところがいいのだ。

現代人が話を書くと理由や原因をちゃんと書いてしまうことが多い。舞台で感じることだけれど、それをすると話の生命力が弱まる気がする。理由や原因、回収をちゃんとしないと文句が出るのだろうけれど、そんなの放っておいたほうが話の生命力が強まり生き生きとした勢いが出ると思う。私達の普段の生活はそんなに理由や原因は解らない事が多い。それじゃ困るんだろうけれど。あとから考えれば・・・ということもやっぱり「なぜ」はわからないことが多いではないかと思うのだけれど。