疲れた

夜明け。時々、寝ていると夜明けごろ咳がでる。が、その時だけでおさまる。気温の変化のせいだろうか。

日曜日、朝起きると頭が痛い。たまにこうして頭が痛くなる。そうなると痛み止め薬を飲むしかなくて、仕方なく飲む。腸に悪いと知っている薬だけれど、痛みを止めないとつらいので仕方なく飲む。

痛み止めで痛みが去ってしまえば、信じられないぐらい快適になる。だいたいいつも午前中。

前日、太鼓の稽古。あまり教えてもらえない。一回だけだとよくわからないなあという手組が2つ。しかし覚えるしかない。音でなんとか覚えられるかというと、太鼓のばちの位置がよくわからない。

なんだか疲れた。

いつの間にか演目が決まっていて驚愕。えー出るのか。と思う。

でも、とにかく機会があれば人前で演奏しておいた方がいいのだろう。

最近、ずっと前に文庫で読んだ三浦しをんさんのエッセイを続けてKindleで読んでいる。友達のおしゃべりやLINEを読んでるみたいな気分になって和む。私はどうも「誰かが話してくれる」のを聞いたり読んだりするのが好きなようだ。

ブログを読むのをすきなのも、誰かのおしゃべりを聞きたいというか読みたいという気持ちにフィットするからだろう。

疲れているときはこういうおしゃべりみたいな文書を読むのがせいぜい。はなかなか物語の中に入っていくのは難しい。

三浦さんが良い友達に恵まれ、人々に好かれている(知らない人によく話しかけられて話し込んでいる。円満な性格とひとなつっこい雰囲気があるのだろう)感じを味わう。

 

おしゃべりとは別に、誰かが物語るのを聞いたり読んだりというのも好きだ。

落語を子供のころにテレビで好んで聞いていたけれど、これも「誰かが話してくれる物語」だから好きだったのだろう。知っている話でも面白いのは「誰か」が「お話」してくれるからだ。

お能が好き何もそこにあるのだろう。誰かが語る物語。それに夢要素も入っていて一番好きなタイプの物語られる物語なのだ。だいたいが、出てくる人がみんなあいまいだ。いったい何なのかあいまい。立場もあいまい。誰と思っていたら違う人。私があなたを殺すといっているそばから、殺されるのは私といった、夢の中で友達だと思っていた人がでも、いつのまにか親と混じっていたりといったことがあって説明しにくいことになっているのにすごく似ていることがある。

そういうところがすごく好き。話の筋を説明するのが難しいのが夢もお能も似ている。

一応整理して話すことはできるけれど、そうするとつまらなくなってしまうのも似ている。

泉鏡花尾崎紅葉系と思っていない系統の話が好きなのも一緒。尾崎紅葉系と思っている種類の小説ははっきりしててつまんない。それより、あらすじを話したくても話せないようなタイプの話が好き。話すとつまんなくなっちゃうのだけれど、読むとすごく面白くて、自分も心の中でどこかで会ったことがあるような感覚になるタイプの話。特に子供のころに出会ったような世界が展開するところがあるのが好きなのだ。

文楽も「語り」だろうと思う。けれど、子供のころ「声が怖い」と思って親しんでいない。人形が生きているように動くのは美しく信じられないマジックみたいだと思うのだけれど、語りの声が怖いのだ。まあ、大人になったのでそのあたりは平気になっているかもしれない。

歌舞伎はちょっと違う感覚で見ている。誰かが語っているという感覚はない。でも、歌舞伎はその場その場、瞬間瞬間の場面が良ければいい!といった、整合性など知るか!といったぶっ飛び具合があるのが気分がいい。生き生きとした力強さ、生命力を感じるのは、昔からある演目だ。そういうのを見るのは好き。それになにより舞台がきれい。ぱーっと芝居の気分が盛り上がる舞台を見るとせいせいするので、見に行くのは好きだ。