くじ運

骨折が見つかったけれど、それほどひどいものでもなく、くっつくのを待っている。

一番ひどいときは病院へ行けず(年末年始)、なんとか耐えてある程度動けるようになってから病院へ行ったので、なんというか、酷さが峠を超えてからの病院だった。

病院ってそういうところあるなと思う。つまりもう耐えられないかなと思って病院へ行くぞとなると、急に痛さだとか、具合の悪さがよくわからないような、弱まったりすることが多い。それでやっぱり行くほどでもないかな、と思って我慢するとやっぱりひどい。というのを一回か二回ぐらい通り越すようなことがよくある。

今回は骨折なので割合はっきりレントゲンで取ればわかるようなものだった(撮る場所や角度も怪我をした角度がわかっていて、場所がわかりやすかったから)から良かったものの、探さないとだとかお医者さんによって勘が働かないと取らない角度だったりだとかすると「何も無いですね」で終わることもあると思う。

病院って、なにか具合が悪くて行っていても、じゃあ、これで確認してというのがある程度医者が見当をつけて、それが在る、無いを確認するものなので、そこが「無い」だと「なにもないですね」で放免ということが多い。

そこにきて、具合の悪さをMAX状態でない時に曖昧に「今は平気ですけど」などと言いつつ話すと見つけにくいということもあるし、「なんか平気なのでは」とか「大げさなのでは」といった方向に行きがちだ。

よくテレビなんかで病院で「これだ」みたいに探し当てられるのがあるけれど、あれは医者がそっち方面に詳しかったり、頭に思い浮かべられたから確認できたというものが多い気がする。見つかった、助かったという話はよく話になるから(わからなかったは話にならないから)、テレビだけでなく、人の話でも聞くけれど、本当に組み合わせというかマッチングというか、不具合と医者のマッチングがいいときと悪い時では差が大きい。

何かで不具合の原因がちゃんとわかって、助かった場合、運が良かった。と思う。お医者さんも運だなと思う。わかる医者にちゃんんと当たらないとわからない場合が多いのだなあといつも思う。運がないと、悪くなるまで様子見、つまり症状がはっきりするまで様子見で「早く見つかってよかった」状態にはならないのだろう。

ちなみに。私はくじ運は悪いほうだ。景品だとかくじびきだとか。ビンゴだとかなんとかそいういうのはびっくりするぐらい自分には回ってこない。何かくじで決めるというのでもかならず「なんでこれ?」というのがまわってくる。

くじだけでなく、なんだか占い?みたいなのや、単に誰かが決めた記号でもチーム名でも、張り紙の挿絵でも、動物だとか記号だとか名前だとかなんだとかそういうのも「なんでこれ?」というのがあてがわれることのほうが多い。

占いなんかはどーでもいいだろうと思うかもしれないが、しかし「あなたはこれ」とあてがわれると「いやー」とその時は思うものだ。

あてがわれ系、配られる系、配分系、くじびきは本当にだめ。毎回期待を大にして結果を待つ方だが、本当に「はずれ」なのだ。病院でそっちが発揮されないことを切に願っているがどうかわからない。今の所まあまあ生きているのでなんとか「大外れ」は回避できているのだろうか。

とはいえ。あたりが出るまでくじを引き続ける。といったようなことが「くじ」ではなく人生、生活では必要だなと思っている。つまり運みたいなものが無いなりに、タイミングや何かが悪いなりに、なんとかもがき続けて、転げ落ちるのを回避というのは続けないと行けないのだろう。そしてなんとか目的地につくために、あたりが出ますようにとトライし続けることをしないといけない。というような運なのだろう。と思う。それを運と呼ぶかどうかはわからないけれど。